坂本龍馬が訪れた横井小楠の家塾「四時軒」に行ってきました
- 2010/01/30
- 14:20
この日(27日)はお天気も良く、尋ねながら近くの公民館にやっと辿り着きました。ここで、聞けば分かるだろうと思って来たのでしたが、親切に「駐車場を出たところの道を川沿いに500mも歩いていけば、ありますよ」との教えていただきました。
しばらく歩くと右手に葦のような枯れ草が生えている小川が見え、遠くの山や田園風景を眺めながら行くと左手にそれと分かる建物が見えました。
門をくぐると、左には庭と部屋が見え、ここだと思いました。
玄関は閉まっていて、どうぞあちらへという案内版に書いてありましたので、そちらへ。
受付で入場料を払おうとすると「こちらに書いてある方に該当する人は無料です」と言われましたので、読んでみると「障がい者の方、65歳の方・・・・」と書かれていました。恐らく私が65歳以上に見えたんでしょうね。
それで、私は「該当しませんので、200円ですね」と言って支払った次第です。
四時軒へ通じる廊下には扉があり、普通は閉まっているのでしょう。「しばらくこちらでお待ちください」と言ってストーブに火を付けてくれました。待っていると館長さんらしき人が出て来られ、しばらく、坂本龍馬が訪れた日のことや何回来られたのか、それはいつかなど、私が確かめたかったことを尋ねました。記録に載っていることなど、丁寧に話していただき、大いに満足しました。新町1丁目の御客屋(御客屋の隣に弊社江戸時代の梅屋がありました)からこの場所まで日帰りするとは本当かと思うほどの距離でした。一度、新町から弁当持参で往復、歩いてみようと思いました。
館内には幼いころの小楠から暗殺されるまでを漫画風な説明絵が掲げてありました。
坂本龍馬が面会した客間に座布団が置いてありましたので、座ってみました。幸いに、この日、見学者は私一人でした。庭と外の景色に目をやり、静かに、当時の二人のことを偲ぶことが出来ました。
1964年2月20日、龍馬は勝海舟の遣いで小楠を訪ねたのですが、目的は困窮していた小楠へ金品をお渡しすることと神戸海軍塾の情報を伝えることのようでした。このことはその話に刺激を受け「海軍問答書」を書き上げ、後日、長崎にいた勝海舟に届けさせたことからも分かります。
龍馬は長崎からの帰り1864年4月6日にも小楠を訪ねています。その時、小楠の甥二人と門弟一人を航海修行のために神戸海軍塾へ入れるために連れて行っています。このことは第1回目の訪問の折、小楠から頼まれていたようです。このことは、藩の許可が必要であったため帰りに立ち寄り、連れていったのではとお聞きしました。
3度目の龍馬の訪問は、1865年5月19日、薩長連合に向けて奔走中、鹿児島の帰りに白の琉球織の単衣に鍔細の大小の刀を差した姿で四時軒を訪ねています。このとき、一昼夜激論の末、小楠を説得出来ないと悟り、翌日帰りました。このように、坂本龍馬は小楠と3度会っています。
横井小楠のエピソード
龍馬の有名な言葉に「日本を今一度、洗濯いたし申し候」がありますが、小楠が言ったことのようです。
また、勝海舟は「天下に恐ろしきものを二人見た。それは横井小楠と西郷南州だ」と言っているほどの熊本の思想家であう。
新政府に参与として召されていますが、明治2年、出仕の帰途を襲われ、60年の生涯を閉じました。
先ずは、私達、熊本県民が熊本の横井小楠を知り、身近な人に事実を伝えようではありませんか。
四時軒について
内坪井(現在の熊本市坪井)に生まれ、安政2(1855)年に沼山津に移り住んだ小楠は、家塾「四時軒」を開き、多くの門弟を養成しました。
ここから眺める景観が四季折々素晴らしいことから、四時軒の名が付いたとされています。
横井小楠の旧居でもあり、小楠は嘉永7年(1854)7月に兄時明が病死したので、家督をつぐことになりました。彼は横井家の財政を立直すため、在宅願を出して安政2年(1855)に相撲町から沼山津に移転し、この家を四時軒と名づけ雅号を沼山と称しました。その後小楠は安政5年に福井藩に招聘され、文久2年(1862)まで肥後と福井を往復しましたが、文久3年の刺客事件で武士の身分を取上げられ、沼山津に蟄居させられました。彼は明治2年1月5日京都で暗殺され、沼山津在住は実質8年8か月であったようです。
彼はこの地で家を増築し、私塾を開き多くの門弟を養成し、現在記念館のあるところがその塾と寮の跡である。私塾は早く解体されて消滅し、住居も明治期の火災で一部分しか残っていません。解体再建された建物の中12畳の座敷と4畳の板の間部分が旧来の四時軒であるとのことです。

熊本城下絵図、左から二つ目の立て札の位置が勝海舟と坂本龍馬が泊まった御客屋(藩の迎賓館)。その隣が弊社山内本店の江戸時代梅屋があり、味噌醤油製造をしていました。恐らく、弊社の味噌・醤油を使った料理とお酒で旅の疲れを癒しながら、天下の一大事について話をしていたのではと思いを馳せる次第です。

四時軒周辺の地図

小楠の家塾「四時軒」への道並み風景

玄関

庭と龍馬と小楠が会見した客間が見えます


四時軒の看板

龍馬と小楠が会見した客間
しばらく歩くと右手に葦のような枯れ草が生えている小川が見え、遠くの山や田園風景を眺めながら行くと左手にそれと分かる建物が見えました。
門をくぐると、左には庭と部屋が見え、ここだと思いました。
玄関は閉まっていて、どうぞあちらへという案内版に書いてありましたので、そちらへ。
受付で入場料を払おうとすると「こちらに書いてある方に該当する人は無料です」と言われましたので、読んでみると「障がい者の方、65歳の方・・・・」と書かれていました。恐らく私が65歳以上に見えたんでしょうね。
それで、私は「該当しませんので、200円ですね」と言って支払った次第です。
四時軒へ通じる廊下には扉があり、普通は閉まっているのでしょう。「しばらくこちらでお待ちください」と言ってストーブに火を付けてくれました。待っていると館長さんらしき人が出て来られ、しばらく、坂本龍馬が訪れた日のことや何回来られたのか、それはいつかなど、私が確かめたかったことを尋ねました。記録に載っていることなど、丁寧に話していただき、大いに満足しました。新町1丁目の御客屋(御客屋の隣に弊社江戸時代の梅屋がありました)からこの場所まで日帰りするとは本当かと思うほどの距離でした。一度、新町から弁当持参で往復、歩いてみようと思いました。
館内には幼いころの小楠から暗殺されるまでを漫画風な説明絵が掲げてありました。
坂本龍馬が面会した客間に座布団が置いてありましたので、座ってみました。幸いに、この日、見学者は私一人でした。庭と外の景色に目をやり、静かに、当時の二人のことを偲ぶことが出来ました。
1964年2月20日、龍馬は勝海舟の遣いで小楠を訪ねたのですが、目的は困窮していた小楠へ金品をお渡しすることと神戸海軍塾の情報を伝えることのようでした。このことはその話に刺激を受け「海軍問答書」を書き上げ、後日、長崎にいた勝海舟に届けさせたことからも分かります。
龍馬は長崎からの帰り1864年4月6日にも小楠を訪ねています。その時、小楠の甥二人と門弟一人を航海修行のために神戸海軍塾へ入れるために連れて行っています。このことは第1回目の訪問の折、小楠から頼まれていたようです。このことは、藩の許可が必要であったため帰りに立ち寄り、連れていったのではとお聞きしました。
3度目の龍馬の訪問は、1865年5月19日、薩長連合に向けて奔走中、鹿児島の帰りに白の琉球織の単衣に鍔細の大小の刀を差した姿で四時軒を訪ねています。このとき、一昼夜激論の末、小楠を説得出来ないと悟り、翌日帰りました。このように、坂本龍馬は小楠と3度会っています。
横井小楠のエピソード
龍馬の有名な言葉に「日本を今一度、洗濯いたし申し候」がありますが、小楠が言ったことのようです。
また、勝海舟は「天下に恐ろしきものを二人見た。それは横井小楠と西郷南州だ」と言っているほどの熊本の思想家であう。
新政府に参与として召されていますが、明治2年、出仕の帰途を襲われ、60年の生涯を閉じました。
先ずは、私達、熊本県民が熊本の横井小楠を知り、身近な人に事実を伝えようではありませんか。
四時軒について
内坪井(現在の熊本市坪井)に生まれ、安政2(1855)年に沼山津に移り住んだ小楠は、家塾「四時軒」を開き、多くの門弟を養成しました。
ここから眺める景観が四季折々素晴らしいことから、四時軒の名が付いたとされています。
横井小楠の旧居でもあり、小楠は嘉永7年(1854)7月に兄時明が病死したので、家督をつぐことになりました。彼は横井家の財政を立直すため、在宅願を出して安政2年(1855)に相撲町から沼山津に移転し、この家を四時軒と名づけ雅号を沼山と称しました。その後小楠は安政5年に福井藩に招聘され、文久2年(1862)まで肥後と福井を往復しましたが、文久3年の刺客事件で武士の身分を取上げられ、沼山津に蟄居させられました。彼は明治2年1月5日京都で暗殺され、沼山津在住は実質8年8か月であったようです。
彼はこの地で家を増築し、私塾を開き多くの門弟を養成し、現在記念館のあるところがその塾と寮の跡である。私塾は早く解体されて消滅し、住居も明治期の火災で一部分しか残っていません。解体再建された建物の中12畳の座敷と4畳の板の間部分が旧来の四時軒であるとのことです。

熊本城下絵図、左から二つ目の立て札の位置が勝海舟と坂本龍馬が泊まった御客屋(藩の迎賓館)。その隣が弊社山内本店の江戸時代梅屋があり、味噌醤油製造をしていました。恐らく、弊社の味噌・醤油を使った料理とお酒で旅の疲れを癒しながら、天下の一大事について話をしていたのではと思いを馳せる次第です。

四時軒周辺の地図

小楠の家塾「四時軒」への道並み風景

玄関

庭と龍馬と小楠が会見した客間が見えます





四時軒の看板

龍馬と小楠が会見した客間