なるまる会熊本旅行記(因みに、私は元会長です)
- 2019/05/17
- 09:35
5月12日~14日
今年はなるまる会の旅行先が熊本と決まり、昨年10月の有田・糸島旅行が終わった日から熊本の案内箇所など思いめぐらせました。
なるまる会のなるまるは、私が九大に入学した時の下宿先の名前「なるまる荘」で、そこに偶然下宿した仲間の集いの名称です。約1年間、朝夕食事をした仲間で気心が知れて、学部は違っても夜話し込んだり、休みの日には一緒に出かけたりしていました。卒業後もそれぞれに会っていたりして交流は続き、今日に至っています。

なるまる荘玄関前にて 下宿近くの輝国神社にて 大宰府天満宮前にて
さて、今回は、遠くは三重県津市、名古屋市、大阪市から、他は福岡県からでしたからホテル集合時間を午後3時半にしました。当日、予定通りに皆顔を揃えました。
この日熊本城散策の案内をしてくれるKさん夫妻(奥様と私は中学生時代の同級生です)も来られて、出発しました。坪井川沿いに歩き、西南の役官軍総大将の谷干城銅像、明治の黎明に活躍した群像(横井小楠、勝海舟、坂本龍馬、松平春嶽、細川護久)
、神風連や勤王志士等に影響を与えた幕末の思想家であり国学者の林桜園が作った学校跡(原道館)、それから地震で崩れた石垣が応急養生されているところを眺めながら棒庵坂を登り、天守閣や小天守が見える加藤神社へ、そして空堀を眺めながら二の丸広場へ、藩校時習館跡、- 参勤交代の道(城内を通ってから豊前・豊後へ行っていました)を下り、法華坂に出て下ると途中に神風連首領太田黒伴雄終焉の石碑、少し下ると過ってあった一丁目御門跡の近くに里程道票「札ノ辻」が立っていました。
ここから私が案内役をバトンタッチして加藤清正が造った新町(城内町)へ入るのですが、その前に藤崎宮があったとろこへ、そこには樹齢千年の大楠が七本立ち並んでいて、国指定記念物になっています。
河上彦斎生誕の地ー高麗門跡ー吉田毒消丸屋敷ー御客屋跡(藩の迎賓館で現在は一新幼稚園) ここには幕末には勝海舟・坂本龍馬が泊まっている、また明治6年には明治天皇・西郷隆盛・西郷従道も泊まっておられますー御客屋の角横が弊社発祥の地です。
ここから熊本城が出来る前に加藤清正公も居た古城界隈を歩き、肥後のてまり歌でもおなじみの船場(洗馬)橋へ、ここには船場門がありました。( 新町はお城へ通じる唯一の町で、ここへ入るには三丁目御門、船場門、高麗門、段山門、一丁目御門を通らなけばなりませんでした。中でも、三丁目御門、高麗門、一丁目御門は熊本城の西大手門以上の大きさがありました。)
船場(馬洗)橋を渡って、熊本城の内堀になっている坪井川を塀沿いに上がって、御幸坂を横目に、熊本地震で壁は崩れ撤去され修復中の国の重要文化財・熊本城の長塀(全長約242m)を眺めながら夕食会場の青柳へ 午後6時半にやっと到着しました。3時間よくぞ歩いてくれました。
2日目 8時出発、8人乗りレンタカーノアを借りて私がず~と運転しました。
熊大(元第五高等学校)前ー武蔵塚ー山内本店(事務所・研究室・醤油原料処理場・諸味蔵・圧搾場・火入れ室・瓶詰・製品倉庫・味噌醤油資料館)-鼻ぐり井手(世界かんがい施設の一つに)-阿蘇外輪山のかぶと岩ー宮地 あか牛丼ごとう屋にて昼食ー阿蘇神社ー阿蘇草千里ー火口手前から下山ー白川水源ー高森町 山村酒造見学ー根子岳麓ー長陽大橋を渡りー大津町ー菊池 城乃井温泉宿
3日目 8時出発 城乃井旅館ー菊池渓谷ー菊池神社ー鞠智城ー昼食 山鹿のイタリー亭ーチブサン古墳ー田原坂西南の役 歴史資料館ー熊本駅 3名とお別れ 熊本駅ー金峰山裏手の宮本武蔵が晩年五輪の書を書いたと言われている霊巌 洞ー熊本駅 4名とお別れ
2泊3日の旅行は無事終わりました。ありがとう! また、来年ですね。

谷干城 像 棒庵坂


味噌醤油資料館前にて 矢野ボランティア名誉会長の説明を聴く私たち

鼻ぐり井手 ミルクロードかぶと岩にて 阿蘇草千里から火口を

草千里展望台にて 深山霧島 煙を吐く阿蘇

あか牛丼 阿蘇神社 白川水源

湧水 山村酒造社長から説明を受ける私たち

間近に仰ぎ見る根子岳 菊池渓谷

菊池城乃井旅館にて 菊池神社

鞠智城

チブサン古墳 内部

田原坂資料館にある 霊巌洞前にて
今年はなるまる会の旅行先が熊本と決まり、昨年10月の有田・糸島旅行が終わった日から熊本の案内箇所など思いめぐらせました。
なるまる会のなるまるは、私が九大に入学した時の下宿先の名前「なるまる荘」で、そこに偶然下宿した仲間の集いの名称です。約1年間、朝夕食事をした仲間で気心が知れて、学部は違っても夜話し込んだり、休みの日には一緒に出かけたりしていました。卒業後もそれぞれに会っていたりして交流は続き、今日に至っています。



なるまる荘玄関前にて 下宿近くの輝国神社にて 大宰府天満宮前にて
さて、今回は、遠くは三重県津市、名古屋市、大阪市から、他は福岡県からでしたからホテル集合時間を午後3時半にしました。当日、予定通りに皆顔を揃えました。
この日熊本城散策の案内をしてくれるKさん夫妻(奥様と私は中学生時代の同級生です)も来られて、出発しました。坪井川沿いに歩き、西南の役官軍総大将の谷干城銅像、明治の黎明に活躍した群像(横井小楠、勝海舟、坂本龍馬、松平春嶽、細川護久)
、神風連や勤王志士等に影響を与えた幕末の思想家であり国学者の林桜園が作った学校跡(原道館)、それから地震で崩れた石垣が応急養生されているところを眺めながら棒庵坂を登り、天守閣や小天守が見える加藤神社へ、そして空堀を眺めながら二の丸広場へ、藩校時習館跡、- 参勤交代の道(城内を通ってから豊前・豊後へ行っていました)を下り、法華坂に出て下ると途中に神風連首領太田黒伴雄終焉の石碑、少し下ると過ってあった一丁目御門跡の近くに里程道票「札ノ辻」が立っていました。
ここから私が案内役をバトンタッチして加藤清正が造った新町(城内町)へ入るのですが、その前に藤崎宮があったとろこへ、そこには樹齢千年の大楠が七本立ち並んでいて、国指定記念物になっています。
河上彦斎生誕の地ー高麗門跡ー吉田毒消丸屋敷ー御客屋跡(藩の迎賓館で現在は一新幼稚園) ここには幕末には勝海舟・坂本龍馬が泊まっている、また明治6年には明治天皇・西郷隆盛・西郷従道も泊まっておられますー御客屋の角横が弊社発祥の地です。
ここから熊本城が出来る前に加藤清正公も居た古城界隈を歩き、肥後のてまり歌でもおなじみの船場(洗馬)橋へ、ここには船場門がありました。( 新町はお城へ通じる唯一の町で、ここへ入るには三丁目御門、船場門、高麗門、段山門、一丁目御門を通らなけばなりませんでした。中でも、三丁目御門、高麗門、一丁目御門は熊本城の西大手門以上の大きさがありました。)
船場(馬洗)橋を渡って、熊本城の内堀になっている坪井川を塀沿いに上がって、御幸坂を横目に、熊本地震で壁は崩れ撤去され修復中の国の重要文化財・熊本城の長塀(全長約242m)を眺めながら夕食会場の青柳へ 午後6時半にやっと到着しました。3時間よくぞ歩いてくれました。
2日目 8時出発、8人乗りレンタカーノアを借りて私がず~と運転しました。
熊大(元第五高等学校)前ー武蔵塚ー山内本店(事務所・研究室・醤油原料処理場・諸味蔵・圧搾場・火入れ室・瓶詰・製品倉庫・味噌醤油資料館)-鼻ぐり井手(世界かんがい施設の一つに)-阿蘇外輪山のかぶと岩ー宮地 あか牛丼ごとう屋にて昼食ー阿蘇神社ー阿蘇草千里ー火口手前から下山ー白川水源ー高森町 山村酒造見学ー根子岳麓ー長陽大橋を渡りー大津町ー菊池 城乃井温泉宿
3日目 8時出発 城乃井旅館ー菊池渓谷ー菊池神社ー鞠智城ー昼食 山鹿のイタリー亭ーチブサン古墳ー田原坂西南の役 歴史資料館ー熊本駅 3名とお別れ 熊本駅ー金峰山裏手の宮本武蔵が晩年五輪の書を書いたと言われている霊巌 洞ー熊本駅 4名とお別れ
2泊3日の旅行は無事終わりました。ありがとう! また、来年ですね。



谷干城 像 棒庵坂






味噌醤油資料館前にて 矢野ボランティア名誉会長の説明を聴く私たち



鼻ぐり井手 ミルクロードかぶと岩にて 阿蘇草千里から火口を



草千里展望台にて 深山霧島 煙を吐く阿蘇



あか牛丼 阿蘇神社 白川水源



湧水 山村酒造社長から説明を受ける私たち



間近に仰ぎ見る根子岳 菊池渓谷



菊池城乃井旅館にて 菊池神社



鞠智城


チブサン古墳 内部


田原坂資料館にある 霊巌洞前にて